建築士の会
これまでに行なった見学会や講習会の行事の報告をスナップ写真と共にお伝えいたします。
わくわく探検(駅前シリーズ)第18弾
2018/11/23
●日時  平成30年11月23日(金・勤労感謝の日)
●集合  近鉄奈良線 石切駅 南出口 受付13:00 出発13:30~16:30
●講師  若松 博恵氏(元東大阪市教育委員会文化財課)
●コース 近鉄奈良線 石切駅 ~ 河内木綿はたおり工房 ~ 旧生駒トンネル孔舎衙坂駅跡 ~
     日下新池(ヒトモトススキ) ~ 丹波神社~正法寺跡 ~ 大龍禅寺 ~ 旧河澄家住宅 ~
     井上家住宅(原始蓮) ~ 綿畑 ~ 石切参道 ~ 石切神社(解散) (約5.0㎞) 
●主催/(社)大阪府建築士会 「建築士の会東大阪」「建築士の会やお・かしわら」
●スタッフ/(社)大阪府建築士会「東大阪・八尾」幹事


開会セレモニー

石切駅前で開会のセレモニー
今回の行程は若干のアップダウンがありますが、基本的には下りの工程で歩きやすそうです(^^)v
今回もたくさんの参加を頂きました

河内木綿 はたおり工房
明治以前、綿作地帯であった河内地域で栽培された綿のから実をとる「綿くり」、綿をほぐす「綿うち」、糸にする「糸紡ぎ」、木綿にする「機織り」等の作業が農家ごとに分業で行われ製品となったものが河内木綿と称されていました。さらに1704年(宝永元年)に大和川の付替えによる新田が綿作地となり、益々綿作りが盛んとなりましたが明治以降、外国製品の輸入より衰退してきました。その河内木綿を綿の栽培、綿繰り、糸紡ぎ機織りを江戸時代と変わらない技法と道具で手織りの織物として復活される試みをされているのが「河内木綿 はたおり工房」さんです。今回のコースでは綿畑の見学もさせていただきます。
駅から少し南に行った参道筋にあります

旧生駒トンネル・孔舎衛坂駅跡
石切駅で日下方面の改札口を西に出て、北へ行きT字路を右に行くと、旧孔舎衛坂駅に出ます。線路はありませんが、駅のホームがそのまま残されています。大正3年(1914年)、大軌(現 近畿日本鉄道) 奈良線が開通した3ヶ月後の7月に日下駅ができ、後に「鷲尾」さらに「孔舎衛坂」に改名されました。駅の横に旧生駒トンネルの入口が見えます。このトンネルは、明治44年(1911年)の鉄道工事着手と同時に工事が始まりましたが、当時の日本で最も規模の大きいトンネルで難工事になり、大正2年(1913年)には岩盤が崩落する一大惨事もおこりました。大正3年4月30日の午前5時に最初の電車が大阪上本町駅を発車 、生駒トンネルを見ようと電車は見物で満員になったといわれています。
第1回目にも訪れたなつかしい場所です

日下新池(ヒノモトススキ)
ヒノモトススキはカヤツリグサの一種で、1株の根元からたくさんの茎が出て、ススキに似ていることからこの名がつけられ、本来は暖地の海岸に生えるものですが、海から離れた所に群生するのは珍しく、古くは海岸線がこの付近まできていたことを示すものとして市の天然記念物に指定されています。
(西に約800m下る日下町2丁目から7丁目にある日下遺跡は縄文時代から鎌倉時代にわたる複合遺跡ですが多くの 貝殻、土器が出土し「日下貝塚」として国の史跡指定を受けており、碑が建っています。)
また、ここに大軌奈良線開通後の大正4年(1915年)に地元の人たちの手で「日下遊園地」が開設され、料理旅館、少女歌劇団、ミニ動物園ができ、池の周辺の桜が満開の頃は花見客でにぎわいました。
池の北側の料理旅館跡に太宰治の小説「パンドラの匣」の舞台になった「孔舎衛健康道場」が建てられていました。
池の周りで若松先生の説明を聞く参加者

丹波神社
丹波神社は、大坂西町奉行で日下村の領主となりこの地で没した曽我丹波守古祐を祭っています。
地元の人たちが丹波守の徳を慕って25回忌に墓を建てましたが、後年その霊位を神として祭り、現在の神社になりました。 丹波守は新しく用水池(御所ヶ池)の普請、樋の伏替堤の修理などの土木工事を行いその費用は、全て領主の負担で村人に負担をかけることはありませんでした。

正法寺跡(上田秋成隠棲地)
丹波神社前を西に下った所に位置し、開祖は不明ですが慶安2年(1649年)曽我丹波守所領改めの時、東西百十間、南北五十五間の境内地に本堂庫裏、方丈、釣鐘堂、鎮守社等が存在しました。
寛政10年(1798年)江戸後期の国学者で歌人としても名高い「雨月物語」の作者上田秋成が眼を患い4ケ月養生の為滞在したところです。
明治維新後廃寺となりましたが、廃寺となる前の明治4年(1871年)、当時の堺県によって設立された「日下郷学校」の校舎として使用されました。
今回から講師を務めていただきました若松先生

大龍禅寺
瑞雲山と号し、宇治萬福寺末寺の黄檗宗寺院です。寺伝によると、推古天皇6年(598年)厩戸皇子(聖徳太子)の創建で、太子自作の観音像を安置古くは瑞雲山厳松寺と称し、養老4年(720年)諸堂大破、天平3年(731年)再建、応仁の乱により堂塔・宝物一切が焼失したといわれています。
現在の伽藍は、貞亨3年(1686年)の夏、泰宗元雄禅師が霊法を修めたところ、たちまち黒雲が天に満ち数丈の大龍が空中に現れた為寺号を大龍寺と定め、大坂の商人天王寺屋林吉兵衛を檀越として、再興したものです。黄檗伽藍をよく残し、建築には黄檗山萬福寺大工棟梁秋篠兵庫が携わったことが棟札に記されています。
伽藍の中心をなす仏殿は元禄13年(1700年)、その南にある斎堂は元禄8年(1695年)、総門は仏殿と同じ元禄13年の建立であることが知られます。市内における年代の明らかな寺院建築では最も古いものと考えられ、また萬福寺大工が関与した貴重な遺構であることから、少し遅れて建てられたとみられる開山堂を含めた4棟が市の文化財に指定されています。
大きな本堂の前で

旧河澄家(東大阪市指定文化財)
河澄家は、辿れる確実なところでは南北朝時代の応安2年(1369年)に入滅した日下連河澄与市大戸清正に溯り、江戸時代には代々作兵衛を名乗り日下村庄屋を務めた旧家です。
奥座敷の棲鶴楼は大阪西町奉行 曽我丹波守が造らせたものと伝えられ、慈雲尊者筆の棲鶴楼の額が掛っており、また上田秋成筆の鳴鶴園記、棲鶴楼和歌(共に市文化財)等が蔵せられ、主庭にある「かやの木」は市の天然記念物に指定されています。
前庭で!ここは地域のコミュニケーションの場にもなっています

原始蓮
古事記に、引田部赤猪子(ひけたべのあかいこ)の作として「日下江の 入江の蓮(はちす) 花蓮 身の盛り人 羨(とも)しきろかも」という歌があり古く日下の湿地に蓮が美しく咲いていたようです。
昭和の初めに蓮の研究家の鑑定により原始的な蓮であるということで「原始蓮」と命名されました。
戦後絶滅の危機にありましたが地元の人によって保護育成されており、日下村の旧家 井上家の畑で栽培されています。
季節的にはちょっと遅かったですが、お土産に参加者に種を頂きました
大事に育てたいと思います(^^)v

河内木綿

1704年(宝永元年)に大和川が付け替えられると、それまでの川床は畑として生まれかわり、綿作りが盛んになり発展しました。現在では作付けしているところが少ないですがここ石切ではその畑を見ることができます。
花や綿がついていて貴重な体験ができました

大阪平野一望
ここ、生駒山麓石切からは大阪平野が一望できます。梅田や難波の高層ビル街やアベノハルカス。
遠くは六甲から神戸付近まで大パノラマです。
今回は行きと帰りに2回も記念写真を撮影いたしました。

石切神社と参道
「石切さん」と親しまれ、腫物の神さんとして多数の参拝者が絶えない石切神社は、字法通寺と呼ばれる所にあり、正しくは石切剱箭神社と言います。
祭神は物部氏族の祖神の天照国照彦火明櫛玉饒速日命と宇摩志摩治(可美真手命)の二神です。延喜式に石切剱箭神社二座としてのせられている式内社です。石切剱箭という名は、石でも切れる鋭利な剱と箭(矢)を意味し、軍事等を司った物部氏一族を祭る社にふさわしい名と言えます。
境内拝殿前には、高さ20m、樹廻り5.1m、樹齢約470年の神木くすの木があり、市の天然記念物に指定されています。また、石切駅から神社までの参道は、商店が並び門前町のようになっていますが、これは大正3年(1914年)大阪電気軌道の開通により石切駅ができ同6年に大戸村が道幅を広げ整備したものです。それまでは東高野街道からの古い参道だけで、天明2年(1782年)の燈籠があります。
鳥居越しに境内を見る 瓦屋根と大木と青空のコントラストがきれいでした!

クイズの解答と賞品授与

最後はいつものお待ちかねクイズの解答と賞品の授与です。
いつものようにこの時間は盛り上がります!
今年からは午後開催のため、周辺は暗くなりましたので写真は青くなりましたが全員の受賞の様子です

では、発表でーーす!!(上位の方からご紹介です)

 
1等賞!!おめでとうございます(*^^)v  

2等賞 3等賞
終了後のお疲れ様会、懇親会です
もちろん、代表恒例の大阪締めで中締めしました(^^)v